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杉原千畝  野口英世 高峰 譲吉 八田与一 雨森芳洲 高山右近 新渡戸稲造  浅川 巧 三浦 環
宮崎 滔天  曽田 嘉伊智  東郷 平八郎

「6000人の命のビザ」
杉原千畝(岐阜県出身 1900〜86)

 
イスラエルの首都・エルサレム市街を見おろすヘルツェルの丘にある庭園に、映画『シンドラーのリスト』の主人公で、約850人をナチから救ったオスカー・シンドラーの木が立っている。ここにはナチの追手からかくまった“義人”の名を記念した木が植えられているのだ。
 
そこに唯一、日本人の名のついた杉の木があり、訪れた人々は記念に石を置いて行く。プレートには、センポ・スギハラとある。
第二次世界大戦直前の1940年8月、リトアニア日本領事・杉原千畝は、外務省の指示に背き「私の意思である」と、ポーランドのユダヤ人へのビザを発給。約6000人の命を救うが、杉原はこの善行について一切、黙して語らなかった。戦後、それが元で外務省から追放される。救われた人たちは、必死にすり切れたビザを手に杉原を探すが、見つからなかった。外人には発音しにくいと、名前を「センポ」と教えていたからだ。
 発見されたのは、28年後。イスラエル政府は、1985年、ノーベル賞に匹敵する『諸国民の中の正義の人賞』を授与。死の前年だ

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人類のため「細菌の狩人」に
野口英世(福島県出身 1876〜1928)
野口英世を偲んで連日多くの人々が訪れる野口英世記念館
(福島県・猪苗代町)の記念碑(左)とがかけられた生家(右)

 O157、エイズ……21世紀を迎えた現在、感染症が猛威を振るっている。人類のために未知の病と闘い、身を捧げ、自らも病原菌の犠牲となり、志半ばにして倒れた世界的な日本人医学者といえば、野口英世であろう。
 貧しい農家に生まれ、1歳半の頃、いろりに落ちて大火傷を負い、苦学を重ね、立身出世…。日本人なら誰でも知っている彼の生涯である。だが、いったい何をして英世を献身的な医学研究につき動かしてきたのだろうか。
 明治33年の冬、生活費も学費もほとんど持たずに渡米した英世は、フィラデルフィアで運命的な出会いを経験する。フィラデルフィアは、ベンジャミン・フランクリンをはじめ、アメリカ建国精神の発祥の地であり、信仰者の街であった。ここで英世は、モリス夫妻と出会う。
 この夫妻は、熱心なクエーカー教徒で、日本人留学生の面倒を熱心にみていた。内村鑑三や新渡戸稲造、そして津田梅子もモリス夫妻に助けられ、信仰心を燃やして学業を修めた。英世もまたモリス家で孤独な心を癒され、人類のために生きる魂を植えつけられたのである。
 1910年代、黄熱病が南米で大流行した。英世は発生の中心地、エクアドルに飛ぶ。英世と黄熱病の闘いが始まった。到着九日後に病原体を発見し、ワクチンをつくって死亡率を激減させた。「ノグチは一体、いつ眠るのか?」と、その献身的な研究は、周囲を驚かせた。
 南米で終息した黄熱病は、次にアフリカで猛威を振るう。英世はアフリカ行きを決意するが、体調を崩していた彼に多くの人が反対した。だが、英世はガーナへと向かった。
 「人間は、どこで死んでも同じです」
 7カ月後、世界から惜しまれつつ、黄熱病で逝く。享年51歳。「細菌の狩人」の闘いは、主人公が代っても未だ続いている。


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ノーベル賞級発見と桜
高峰 譲吉(石川県出身 1854〜1922)
早春のニューヨークにあるウッドローン墓地にある
高峰譲吉の墓に咲く枝垂れ八重桜(写真・米国法人日本文化財団)

 桜前線が北上するころ、海の向こうのワシントンDCのポトマック湖畔、ニューヨークのハドソン・リバーパークからも桜の便りが届く。
 ニューヨークから車で20分、野口英世の墓がある、ウッドローン墓地。その一角に、みごとな桜の花を咲かせる墓がある。ここに眠る人物こそ、85年前、5000本の苗木を自費で準備し、尾崎行雄を代表に立てて寄贈させた、世界的に有名な化学者・高峰譲吉である。
 「ドクター・タカミネ」の名が世界に知られたのは、二つのノーベル賞級の発見だった。一つは1894年、アメリカの研究所で開発した、消化酵素タカジアスターゼ。もう一つが、1900年、外科手術での患者の生存率に多大な貢献をしている、アドレナリンの結晶化の成功。
 また、末永い日米友好を願って、数々の文化的遺産を残している。「日本倶楽部」と「ジャパン・ソサエティー」の創設や、日本庭園を持つ建築物「松楓殿」の保存など。桜の寄贈もその一つ。しかし、自らは吹聴しなかったためか、これらの事実はあまり知られていない。
 日米和親条約が締結された1854年、加賀藩の典医の長男に生まれた高峰は、後の東大工学部を卒業後、英国へ留学。帰国して農商務省入省。33歳で、米国人キャロラインと結婚。36歳で渡米し永住。数々の偉業を成し68歳で没す。

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不毛の荒野を一大穀倉に
八田与一(石川県出身 1886〜1942)
東洋一の人造湖「珊瑚潭」を見渡す丘に
据えられた八田与一の銅像と夫妻の墓

 台湾の首都、台北より南へ355キロメートル(km)。台湾第四の都市、台南がある。ここは古くから政治、経済、文化の要衝の地として栄え、16世紀初頭、オランダの植民地になってから、明朝、清朝、イギリス、そして日本というように外国の支配を受けてきた。
 この台南の北方に、台湾有数の穀倉地帯、嘉義平野がある。20世紀初頭まで、不毛の地だったとは想像できないほど、初夏の風にそよぐ緑の穂波が印象的だ。
 1世紀前、誰からも手をつけられることなく、打ち捨てられていた荒れ地に挑戦し、荒野を肥沃な大地に変え、現地の人々から、その偉業を讃えられ続けている一人の日本人がいた。
 金沢に生まれ、東大卒業後、台湾総督府土木局に勤務した八田与一。彼は水源不足ゆえ、荒れ放題だった広大な平野の将来性に着目。山をくりぬいたトンネルによる灌漑用水の確保を提案し、夫人と共に現地に住んで工事を指導。長さ3kmのトンネルを貫通させ、東洋一の人造湖「珊瑚潭」を造り、荒野に用水路を張り巡らす。苦節10年、1920年(大正9年)に完成。その距離は、実に万里の長城の6倍、1万6000kmに及んだ。
 それまで30万t(トン)だった米の収穫量は、工事の完成10年にして一挙に100万tに。そして180万t(93年)へと激増し、台湾随一の大農業地帯となった。
 人々は、功績を讃えて1931年、八田の銅像を設置。戦時中は撤去されるが、人々はそれを大事に保管し、戦後(昭和21年)、珊瑚潭の側に、八田夫妻の墓を建て篤く弔った。そして1981年(昭和56年)、くだんの銅像を再設置。今も詣でる人が絶えることがない。
 八田は1942年(昭和17年)、フィリピンに向かう途中、海難で南海に没し、夫人は珊瑚潭に身を投じ、夫に殉じたのだった。

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“誠信”の心つらぬく
雨森芳洲(近江出身 1668〜1755)
芳洲の生家跡に建てられた
「東アジア交流ハウス・雨森芳洲庵」(滋賀県高月町)

 「近くて遠い国」といわれる、韓国・北朝鮮。それは、意外にも明治になってからで、李氏朝鮮王国とは長く友好関係にあった。
 この善隣関係をズタズタに破壊し、今日まで影響を与えたのが、豊臣秀吉の引き起こした、2度の朝鮮出兵だった。
 その修復に徳川家康は苦心し、歴代将軍がそれを踏襲した。鎖国の中にあって、唯一国交をもっていた朝鮮との関係を確固たるものにすべく、誠信を貫いてその重責を担った一人の人物がいた。対島藩朝鮮方佐役(外交と貿易の任)・雨森芳洲である。
 近江の高月に生まれた芳洲は、22歳のとき、対島藩に仕官し、4年間の江戸詰めのあと、絶海の孤島ともいうべき対島に渡った。以来、88歳で対島の「鬼」と化すまで、朝鮮との外交に腐心し、朝鮮との国交をより確かなものにした。 その間、芳洲は、長崎の出島において中国語を学び、さらには朝鮮の釜山に渡って朝鮮語そのものも習得している。異国を知るためには、まず相手の国の言葉を理解しなければならないという信念からにほかならない。
 また芳洲は、朝鮮からの使節団である「朝鮮通信使」一行500余名を、2度にわたって対島から江戸にまで案内している。その応接にも芳洲は、“誠信”のふれあいが必要であると説き続けた。その著『交隣提醒』には、次のような一節がある。誠信のふれあいとは……に続き、
 「実意と申す事にて、互いに欺かず、争わず、真実をもっての交わりを、誠信と申し候……」

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栄華捨て、信仰に生きる
高山右近(大阪・高槻出身 1552〜1614)
マニラ市長の提唱により日本とフィリピンの共同で
建てられた右近像と記念碑
(マニラ市プラザデラオ比日友好公園)

 世界史上の大航海時代と呼ばれる16世紀、1543年にポルトガル人が日本に鉄砲を伝え、1549年にはフランシスコ・ザビエルがキリスト教(キリシタン)の布教を開始した。キリスト教はまたたく間に日本中に広まり、信者は数10万人に達したと言われる。
 有力なキリシタンとしては、4人の少年をローマ教皇のもとへ派遣(天正遣欧使節、1582年)した九州の大名、豊後・府内の大友宗麟、肥前・長崎の大村純忠、肥前・有馬の有馬晴信らが有名。大阪・高槻の高山右近は、領国内に理想郷建設を計画した敬虔な信者であった。細川忠興夫人ガラシャは、夫を通して高山右近からキリシタンの話を聞いて入信したと伝えられる。
 高山右近は洗礼名をユストといい、初め摂津の戦国大名・荒木村重に属し、後に織田信長に従う。本能寺の変後、秀吉により播磨・明石に封ぜらるも、信仰を捨てず、改易。一時、金沢前田家の客将となったが、徳川幕府が発した「国外追放令」(1614年)によって、ルソン(現フィリピン)のマニラへ追放され、その地で客死した。
 高山右近は、キリスト教信仰と大名の栄華との二者択一を迫られ、信仰を選択した唯一の大名である。彼の存在は、当時の世界の中心ローマにまで知られ、その強い信仰心は人々を感動させ、死後、聖人として列せられた。
 現在、死去の地マニラに彼を讃える銅像が建てられ、日比友好のシンボルとなっている。

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「太平洋の懸橋たらん」
新渡戸稲造(岩手県出身 1862〜1933)
真夏の陽に照らされて「願わくはわれ 太平洋の橋 とならん」
と刻まれた石碑がひっそりと建つ岩手公園

 夏草繁る、岩手県盛岡市の岩手公園。中央に「願わくはわれ 太平洋の橋 とならん」と刻まれた石碑がひっそりとたたずんでいる。
 東洋と西洋の「執成者」と、グリッフィスに称えられた新渡戸稲造。旧「五千円札の肖像」と紹介した方が分かりやすいが、『武士道』の著者として世界に知られている。この本は、日本が世界に知られていない日露戦争前の1901年、アメリカで発行され大評判になった名著。以後、ドイツ語、フランス語、ポーランド語、ハンガリー語、ロシア語、中国語、アラビア語などに翻訳され、世界の人々が、日本を知る絶好の参考書として読み継がれている。
 文久2(1862)年、南部藩士の7人兄弟の末っ子として誕生。少年時代は、母親がたびたび近所をわびて回るほどのわんぱくだった。14歳で東京英語学校へ。16歳で札幌農学校に入り「少年よ大志を抱け」のクラーク博士の下で学び、クリスチャンに。その後、東大に入学、ここで生涯の目標「太平洋の懸橋たらん」と決意。
 23歳の時、アメリカへ留学。アルバイトに新聞の切り抜きなどをし、妻となるメリーと出会い、7年後に結婚。39歳の時、台湾の農業振興に尽力、砂糖の一大産地にする。
 また京大、東大などの教授を務め「女性にも教育を」と東京女子大の初代学長に。そして国際連盟の事務次長に就任。ユネスコの前身「国際知的協力委員会」をつくるなど活躍。“ジュネーブの星”“連盟の良心”と呼ばれる。
 晩年、関東軍の暴走により満州事変が起きると、戦争回避のため、病身を押してアメリカへ渡り、日本の立場を訴えるが、病気は悪化。翌年、無念のうちに72歳で没す。命懸けの「戦争阻止」はできなかったが、稲造の願った「世界平和」は、今、後継者たちの手により達成されつつある。

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韓国の土となった日本人
浅川 巧(山梨県出身 1891〜1931)
ソウル郊外の憂いを忘れるという意味の「忘憂丘」に
韓国の人々によって建てられた巧の墓と「功徳碑」と李朝壷型の石碑

 「浅川サン、シンダンジ、アイゴー」。その死に際し、大声をあげて嘆き悲しむ韓国の人々の姿には、無類のものがあった。浅川巧は、韓国人によって追悼され、顕彰碑まで建てられた例外的な日本人だった。
 1891(明治24)年、山梨県に生まれた巧は、母の影響でクリスチャンに育つ。農林学校を2番で卒業。大館営林署に勤務後、「併合」後の韓国へ渡り、林業試験場に勤めて半島の緑化に努める傍ら、陶磁器研究に力を注ぐ。
 「俺は神様に、金はためませんと誓った」
 巧は、当時、誰も顧みなかった韓国の民芸品などの収集に給料をつぎ込み、後世に残すため朝鮮民族美術館を設立し、すべてを寄贈(現在、韓国国立中央博物館に展示)。韓国語を話し、韓国服を着、乞食にはポケットのお金を全部あげ、学校へ行けない子供がいると奨学金を与えた。
 巧がもっとも力を入れたのは、韓国産業のガンとされ、厄介者だったハゲ山対策。「従来は面をひそめて見て来た禿山を涎を流して眺める」と、巧はハゲ山克服を研究し、韓国の山と樹木を愛し、緑の山へと変えていった。
 1931年、韓国各地で無理して植林の講演をした巧は、風邪をこじらせ病床に伏す。40度の高熱を押して依頼されていた原稿を書き上げて後、40歳の若さで没す。
 「…巧さんは、官位にも学歴にも権勢にも富貴にもよることなく、その人間の力だけで堂々と生きぬいていった。…朝鮮の為に大なる損失であることはいふまでもないが、私は更に大きくこれを人類の損失だといふに躊躇しない」
 この京城帝国大学教授・安部能成の追悼文は、後に『人間の価値』と題して、1934年から国語(旧制中学)の教科書に収録された。
 死後35年たった1966六年、巧を知らない林業試験場の韓国人職員の寄付で『浅川巧功徳之碑』が建てられ、今も墓の掃除と献花が続けられている。

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世界に愛国心示した“蝶々夫人”
三浦 環(東京都出身 1884〜1946)
《蝶々夫人》のモデルとされる長崎市の
グラバー邸に建てられた三浦環の像

 「うたひめは 強き愛国心をもたざれば 真の芸術家となりえまじ――環」
 これは「世界のプリマ・ドンナ」三浦環が戦時中疎開した山中湖畔に、17回忌に建立された墓碑に刻まれた言葉だ。翌昭和38年、プッチーニの名作オペラ《蝶々夫人》の舞台・長崎の通称「蝶々夫人の家」と呼ばれるグラバー邸において、このヒロインを2000回も演じた三浦環のブロンズ像の除幕式が盛大に行われた。
 三浦環は東京音楽学校(現・東京芸大)を卒業、同助教授を経て30歳で渡欧。間もなくロンドンのロイヤル・オペラに《蝶々夫人》でデビュー。続いて渡米、ニューヨークのメトロポリタン・オペラでも《蝶々夫人》のロングラン上演。第一次大戦終結後ニューヨークの凱旋式で歌を披露しウィルソン大統領以下3000人の兵士らを熱狂させ、“民間外交”でも大任を果たした。
 1920年にはイタリア初め世界各地に公演旅行。この時プッチーニを訪問、大作曲家は環の舞台に接し「あなたのマダム・バタフライは歌も演技も理想的と言えるほど素晴らしい。悲劇的な日本女性の情感の微妙な綾を完璧に演じてくれた」と最大級の賛辞を送ったという。
 環は南米にもオペラ公演で度々訪れ、アンコールで日本からの移民のために必ず懐かしい日本の歌を聴かせた。また、キューバ公演では急遽刑務所の慰問を申し出、歌を披露して囚人たちを感激させ、彼らにアイスクリームをご馳走してと400ドルの小切手を渡したという。
 1935年伊・パレルモで《蝶々夫人》2000回目の公演を最後に楽壇の一線を退き、帰国。戦時中、前線の兵士たちを心から慰めたいと慰問団に積極的に参加し、軍需工場に動員された「女子挺身隊」の若い女性たちのためにもよく慰問に行った。学徒出陣で多くの若者の命が散ったという報に、身を震わせて号泣したという優しさと純粋さの持ち主でもあった。
 敗戦直後の混乱期に三浦環が没して半世紀以上も時が流れた。単にわが国初の世界的プリマ・ドンナというだけでなく、二つの世界大戦を挟む暗い時代に、祖国を愛しつつ歌によって世界の人々の心の支えになろうとした生涯は、彼女の遺した貴重な録音とともに語り継がれていくだろう。

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アジア解放に命捧げた志士
宮崎 滔天(熊本県出身 1870〜1922)
滔天らの支援により、中国革命を達成した孫文を記念する
『中山紀念堂』と孫文像(中国広東省広州市)

 改革開放の先進地として、活気に沸く中国南部最大の都市広州。ここに孫文を記念する『中山紀念堂』が建っている。孫文は「中国革命の父」として、中国と台湾で等しく評価されており、中山は孫文の号。その名づけ親は、日本人の志士・宮崎滔天だった。
 滔天(本名寅蔵)は、明治三年(一八七〇年)熊本で、十一人兄姉の末っ子として誕生。「名利を求めることを憎み、弱者への慈愛をもって生きる者こそ英雄である」というのは、父長蔵の教え。子らは文字通り地位名誉を求めることなく、自らの私財をなげうって、理想を追い求めた。
 長兄八郎は「自由の二字、これ天真」の書信を残し、西南戦争に散った。「天造物である土地の均有は人類の基本的人権である」として、欧米や中国までも説いて巡った民蔵。人類の抑圧からの解放を最終目標とし、その第一段階を中国革命に命を賭け、中国語を習って準備していたが、志半ばで病に倒れた弥蔵。
 滔天は兄たちの遺志を継ぎ、欧米の植民地としてあえいでいたアジアの解放に、命を燃やす。
 「理想は実行すべきものなり、実行すべかざるものは夢想なり」と、赤貧洗うがごとき境遇の中で、一家を挙げて外国の革命家たちを、何の見返りも求めず歓待。その結果、日本人としては例外的に多数の外国人から、全幅の信頼をかち得た。
 16歳でキリスト教に入信。21歳に中国を視察。その後タイに渡り、反政府運動を助けるが挫折。帰国した滔天は、犬養毅の仲介で孫文を知る。マカオへ渡り、亡命の下準備をし、孫文を迎える。このとき滔天は、宿帳に孫文の偽名を「中山樵夫」と書いた。以後、孫文は中山と号す。
 滔天は荒尾村の実家の一室に孫文をかくまっていたが、ついに一九一一年の辛亥革命によって、孫文は中華民国を樹立。その翌年、随員を従え、滔天の生家を訪問し、謝意を表した。
 中国はもとより、韓国、ベトナム、タイ、フィリピン、インドなどの解放運動に生涯を捧げた滔天は、奇しくも52歳の誕生日に逝く。
 現在、荒尾市には「中国革命の母」滔天と孫文を記念して「世界は一つ」の文字と共に、二人のレリーフ像が建てられている。中国でも滔天の記念碑建立の機運があるという。



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“韓国孤児の慈父”
曽田 嘉伊智(山口県出身 1867〜1962)
氷雨に建つ永楽保隣院。
かつて曽田が園長として孤児たちを育てていた鎌倉保育院を
引き継いで建てられた(韓国・ソウル市龍山区)

 “栄光の死”を悼む、春雨の京城に2000の人――昭和37年、『朝日新聞』にこんな記事が載った。当時、日韓国交正常化前だったにもかかわらず、その葬儀はソウル市民の手によって盛大に行われ、韓国政府は、日本人・曽田嘉伊智に異例の文化勲章を贈った。
 山口県に生まれた曽田は、若いころ中国や香港、台湾を放浪。朝鮮の青年に命を救われたことがきっかけで、明治38年韓国へ渡り、翌年キリスト教に入信。日本語教師をしながら、鎌倉保育院で孤児の救済を始める。が、わずかな私財を投じて運営するも、たちまち資金は底をつく。すると、園長自ら大八車を引き、食べ物をもらって歩く。貧しい食べ物を孤児たちとわけあい、同じボロをまとう日々。孤児たちが曽田につけたアダ名は「ハナレアボジ」。韓国語で「天のお父さん」だった。育てた上げた子どもの数は、千300人以上に上る。
 戦後「世界平和・福音宣伝」の旅を思い立ち、昭和22年日本へ。ところが韓国動乱の勃発で、韓国に帰れなくなり、夫の帰りを待ちわびていた妻タキ子は、昭和25年ソウルで亡くなる。韓国政府高官、知事、市長らが弔問。弔辞で、「慈母」「民族のお母さん」と讃えられた。
 曽田は日本で慈善活動をしながら「世界平和」を訴え続け、「残された余生を韓国で」との願いが叶い、昭和36年、94歳で韓国に招かれた。子どもたちによる「♪ハラボジ(おじいさん)マンセイ(万歳)」との童謡で迎えられ、涙で感激する曽田に、かつての孤児たちは「お父さん!」と涙を流して抱きついた。ソウル市民章を受け、翌年、95年の生涯を閉じる。
 曽田が奉仕していた鎌倉保育院は、今日、建物こそ違う永楽保隣院に引き継がれ、ソウル市龍山区にある。墓は漢江のほとりに、ひっそりと建っている。墓石には「孤児の慈父、曽田嘉伊智」と刻まれていた。

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“東洋のネルソン”
東郷 平八郎(鹿児島県出身 1847〜1934)
東郷平八郎連合艦隊司令長官
/訪れる人もなくひっそりたたずむ『三笠』を背景に「皇国興廃在此一戦」碑の横で、子どもを見つめるように建つ東郷像(横須賀市・三笠公園)。

 日本の世界史への登場、それは1904(明治37)年、当時世界最強と謳われた、ロシアのバルチック艦隊を撃破した時だろう。明治維新からわずか40年。日本は大国ロシアを敵に回し、危急存亡の危機に立った。運命の5月26日未明。東郷は「敵艦見ユ……本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と、大本営へ打電。
 「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」
 旗艦『三笠』はZ旗を揚げ、バルチック艦隊に向け突進。敵前大回頭という捨て身の奇策。敵弾は、最先頭の『三笠』に、雨あられと集中。次々と被弾。艦は損壊、死傷者続出するも、砲弾が炸裂する艦橋に身をさらし、ひたすら沈黙して応射させぬ東郷。肉を切らせて骨を切る、薩摩武士魂。距離5000m、完全射程内。連合艦隊の砲が一斉に、火を吹き、バルチック艦隊は壊滅。
 このニュースは世界を駆け、“東洋の小国の勝利”は、欧米列強の圧政下にあった諸国、民族に計り知れない勇気を与えた。東郷は“東洋のネルソン”と喧伝され、フィンランドでは東郷の名を冠したビールが造られ、トルコでは子供にトーゴーと名づける者が続出し、道に“トーゴー通り”とつけるなど、その熱狂ぶりは大変なものだった。
 その後、『三笠』は、記念艦として保存された。だが太平洋戦争後、軍国主義の象徴とされ「受難」の憂き目に遭う。ボロボロになった『三笠』を嘆き、戦災で消失した東郷神社と共に復元させたのは、皮肉にも日本海軍を全滅させた米国のニミッツ元帥であった。それなのに東郷らが命がけで守った日本では、今日、忘れられつつある…。
 横須賀にある『三笠』の前に、今も東郷像が、超然と立っている。


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